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『文章の書き方』 辰濃和男 【あらすじ・感想】

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本書の概要

「テキストライティングのハック本」、ではない。著者は「文は心である」ことを何度も強調し、多くの名文を紹介しながら生き方、日々の振る舞いを丁寧に語る。明日からの心構えを正してくれる一冊。

読書感想

読みやすい文章の書き方の類

これまでもっとも書いてきた文章は仕事に関するメール、仕様書、マニュアル、企画書、プレゼン資料といったたぐいのものだ。

関係者にこちらの意図を伝え、思惑通りに動いてもらえるようにと、どちらかといえば戦略家めいた気持ちで書きなぐってきたように思う。

若いころ、なんとかうまく書けるようにならないものかと手にとった「すらすら書ける~」「A4一枚で~」はたいへん読みにくく役に立たなかった記憶がある。

本書の概要

読み始めると、まず、日本語は美しい言語だったと感じる。

そして、何よりも読みやすい 。

短歌や俳句を読んで感じることが多いが、新書でこのような気持ちにさせられるとは予想外のことで驚いた。

最初の章から引用する。

ものを書くときは準備が必要です。小さな円を描いたのでは、それだけのもので終わってしまいます。はじめから思い切って円を描いて準備をすれば、内容の深いものが生まれます。 — 本書より引用

これだけで、 乱暴な言い方だが今どきのモノカキハック本とは違うとわかる。

もう少し本作の特徴を表すのに、目次を紹介する。

第1章はこんな具合である。

1(広場無欲感)の巻 —素材の発見
広い円 —書くための準備は
現 場 —見て、見て、見る
無 心 —先入観の恐ろしさ
意 欲 —胸からあふれるものを
感 覚 —感じたことの表現法 — 本書より引用

書こうと考えた各項目の頭文字をとって「広場無欲感の巻」だという。

第2章、第3章も同じ調子だ。

これだけで、読み始める前に、すっかり愉快な気持ちになってしまった。

本書における読みやすい文章とは

著者はいくども「文は心である」と説く。

語られる自身の体験、時代を問わず引く名文の数々が、じっくりとその理由を読み手に伝えてくれる。

日々、自分自身が書くことを振りかえり、反省することが多いと気づかされる。

ムダを排した文章で、なるほど仕事は効率化され商品またはサービスが世にでるスピードは早まる。

しかし、それを手に取る消費者(自分も含め)は、五感をフルに活用して、それを選びとるのではないか。

そう考えると、感情を排したやりとりで進められる仕事は果たして成果を生み出すのか怪しいものだ。

若いころ仕事の作法として書き方、所作において、ポーズというか格好ばかり叩きこまれたことを思い出す。

それよりも、コストがかかり、むずかしいことではあるが、人間性を育てることをもっとも重要視することが会社全体として成功につながるのでは。といったことを考えてみたり。

気になった箇所のメモ

いくつか心に残った箇所をメモしておく。

以下本書より引用

近代文明を尺度にして「先進」「後進」ときめてしまっていいのか、という疑問が私にはあります。文明先進国は環境後進国である場合も多いのです。
白紙で見ようとすると、いろいろなものが見えてきます。

何が「先進」で「後進」なのか、ある一面の尺度にならされて考えたこともなかった。

私たちの日常は「文明性の原理」に貫かれています。しかし体内の奥深くには、人類誕生以来の「自然性の原理」が脈々と生きています。文明製の原理の勢いが強くなればなるほど、それは、人間の中の自然性の原理のエネルギーを奪います。大都会にいると、息苦しくなって、緑が恋しくなるのは、この自然性の原理からほとばしる悲鳴のようなものだと思っていいでしょう。

私は刺青や、自然をまとう民族衣装に魅力を感じる。

その理由をうまく説明できなかったのだが、非常にわかりやすくまさにこれだと感じた。

やさしい文章を書くためには難しい文字を使ってはいけない、と諭吉は戒めています。「文章を書くに、むつかしき感じをば成る丈け用ひざるやう心掛けることなり」と書いています。難しい文字を使いたがるのは、文章が下手な証拠だ、下手だからことさらに難しい字を使って飾ろうとしているのだ、文章を飾るだけではなく「事柄の馬鹿らしくて見苦しき様」を飾ろうとしているのだ、となかなか手厳しい。

一見わかりにくい、難しい文章は、恐らく読み手に真意が伝わっては困るからではないかとも思う。企業や政治が示す文章にそういったものが多いことは、庶民に悟られては困ることを語っているからでは、と考えさせられる。

いかに書くかということは、つまるところいかに生きるか、いかに生きているかということと無縁ではありません。いや、いくら筆先でごまかそうとしても、その人の生き方、生きている姿、心のありようが決定的に表れるのが文章というもののおもしろさであり、怖さです。

十把一絡げの誘惑と闘いましょう。
「ある国へ行った。これこれの怖い思いをした。あの国は恐ろしい国だ」
「ある国へ行った。親切なタクシー運転手に会った。あの国のタクシー運転手はみなすばらしい」
「あの人は酒を飲まない。酒を飲まない人はまじめだ。だからあの人はまじめだ」
こう並べれば、十把一絡げの誤りにすぐ気づきますが、私たちは、日常の暮らしではこういう間違いを性こりもなく繰り返しているのです。

不特定多数に訴える力があるところ程、十把一絡げの誘惑にほいほいと踊らされている。十把一絡げは、「自分は思考停止者である」ことを意思表明しているようなものだ。

記者仲間では「あいつは出羽守(でわのかみ)だからな」という言い方があります。
アメリカではこうだ、フランスではだれもそんなことはしない、イギリスではね、そんなことをしたら笑われるよ、と「では」をふりかざして説教をする人を皮肉った言葉です。

新聞のことを書かなくては、不公平のそしりを免れません。問題の東京大空襲のあったころの朝日新聞を調べました。
「汚れた顔に輝く闘魂、厳粛・一致敢闘の罹災地」「戦ひはこれから、家は焼くとも・挫けぬ罹災者」という見出しで、記事がつづられていますが、惨禍の具体的な描写はほとんどありません。被害のすごさは、ついに新聞には出なかったのです。これほど不正確な記事はありません。

著者は、もと朝日新聞の記者で、1975年から1988年まで「天声人語」を担当していた人物である。

本作は1993年に退職し、翌年に出版された。

それから20年経って、ようやくこの指摘が届いたのか、ただ時代の流れだったのか、不正確な記事を掲載しない会社に果たして変わるのだろうか。

福沢諭吉のススメ

他にも多くあるがキリがない。

著者は福沢諭吉の文章を多く紹介し手本として示しており、最後もまた福沢諭吉で締めくくる。

不勉強なことに福沢諭吉の本を読んだことがないので、文中に出てきたものからまずは手始めに読んでみたい。

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