『最後の将軍』 司馬遼太郎 【あらすじ・感想】
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あらすじ
黒船来航により家康から代々続いた徳川江戸幕府は危機へと陥る。激動の時代に十五代将軍となった「徳川慶喜」。家康以来と評された将軍は大きな時代の流れをいかに生きたか。江戸幕府最後の将軍の一生を描いた歴史小説。
読書感想
昨年からぽつぽつと歴史小説を読むようになり、司馬作品としては「翔ぶが如く」に続いて二作目である。
「徳川慶喜」に関する私の知識
「江戸幕府最後の将軍」
以上。
本作を読む前に私が知る徳川慶喜に関するすべてだ。
学生時代、日本史の授業で耳にし、テストのため年号まで記憶したが、
その後知識が増えることは無かった。
この偏った知識から慶喜に抱いていたイメージはこんなところだ。
- 江戸幕府の長い歴史を終わらせた人
- 能力に欠けていたから幕府崩壊に至ったのではないか
- 現代でもいそうな名前
自分で自分を疑う無知ぶりと偏見に満ちた内容だが、正直に書くとこうなった。
生い立ちと人物像
では実際にどういう人物であったか。
徳川家の家督は直径がいない場合、分家である「徳川御三家」から選ばれる。
「徳川御三家」は紀州、尾張、水戸の三家であり、なかでも水戸家は石高、官位とも他二家に劣り、将軍を輩出したことは無かった。
だがしかし慶喜はこの水戸家の生まれである。
しかも生家における彼の名は「七郎麿」、お察しの通り七男だ。
将軍の位からはあまりにも遠い人生の始まりである。
すべて人任せの貴族とは異なり、慶喜は何ごとも自分の手で行うことを好んだ。
ちょっと変わった人物で、漁師に話しかけ三年かかると言われた投網を一月で覚えたという。
他にも包丁を手にして料理をしたり、自ら馬を乗りこなしたりと、現代に生きていればかなりポイント高い男子で、さぞモテたであろう。
また、かなり理知的で弁が立ち、早くから議論の場で年長者を説き伏せるするなど政治家としての才を持ちながら、悲しいほどに野心を持たなかったという。
将軍への道のり
しかし時代が彼を放おって置くことは無かった。
黒船が来航し世間は開国か攘夷かで大いに揺らいでいた。
ちなみに、この辺りで将軍家をいいように操っていた「井伊直弼」による「安政の大獄」の下りがあり「吉田松陰」があっさり処刑された。
私の中でNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は早くも終わった。
話しが逸れたが本編である。
長く続いた安寧の世で大老、老中に操られ力を失っていた徳川幕府は、危機を脱する術を持たなかった。
これは運命だったのであろう。
いくつもの偶然と、国を憂う者達の説得で慶喜は担ぎ出されようとされていた。
しかし、彼はすべてを見通していたのだ。
考えてもみよ、政体が古すぎる。たれがやってもうまくゆかぬ — 本書より引用
根拠もなく欧米ごときと攘夷論が吹き荒れる中、どこまでも冷静である。
三百年続いた古い体制で、近代化を遂げた西洋列強と政治や武力で渡り合うことなど到底不可能である。
とは言いつつも事態は逼迫し、周りは事態収拾を期待し慶喜に即位を求める。
慶喜が歩み寄りを見せ述べた内容は、徳川家は継ぐ、しかし将軍については大名たちが投票して決めれば良いというもの。
徳川家の人間として家督は引き受ける。
しかし、これまで徳川家の主人は将軍とイコールなのだ。
そして意見が割れる政治の場においては選挙をしろと主張する。
民主主義という概念は日本の歴史に過去あったのだろうか?
おもしろい話しがあった。
江戸時代は鎖国の時代と聞いていたが、慶喜はフランス好きであったという。
フランスの政体や歴史を聞くことを好み、あげく言語を習得したがった。
時代にとらわれず学び発想し行動する人物が、伝統と様式に凝り固まった家から出てくるとは何ともおもしろい。
徳川幕府の終焉
しかし時の運命には逆らえず、慶喜はいよいよ将軍となる。
野心的な諸藩から徳川幕府を守り、開国を迫る西洋列強から日本を守る、総責任者となったのである。
慶喜は国力を冷静に分析し開国の道を見据えていたが、幕府の弱腰を突いて倒幕を企む長州藩や薩摩藩がいる。
慶喜は有力藩の大名を説得するため長時間に及ぶ会議を自ら開くのだが、その内容もまた彼の才覚を感じる。
将軍とはとても偉いもので、直接話しをするのも憚れる立場とのこと。
しかし慶喜は大名たちに敬語で話しかけ、タバコは自由に吸ってくださいと煙草盆を用意し、座を和らげるため茶菓子を勧めた。
座が疲れてくると、すこし休みましょうと告げ、一同を庭に連れて行き「さあ、写真を撮りましょう」と記念撮影を行ったという。
ムダな慣習を取り払い、仕事を完遂するためにあの手この手を尽くす、この胆力と政治力は素晴らしい。
首相になってほしい人の投票に是非とも「徳川慶喜」を推したい。
しかし懸命に手を打つも、薩長は朝廷を手のひらに納め倒幕の勢いを強める。
幕府には1万を超える者たちが徳川家と命運を共にする決意する。
この慶喜が腹を切って死んだときけば、汝らはどのようにでもせよ。しかしこのように生きている限りは、わが下知に従え。妄動はならぬ。 — 本書より引用
慶喜は最後まで野心家では無かった。
すべてに責任を持ち、未来を見据え皆を説得し「大政奉還」、そしてその後「辞官納地」を決意するのだ。
「大政奉還」は徳川幕府が預かっていた政治を幕府に戻し、「辞官納地」は土地身分をすべて差し出し浪人になることである。
追い詰められ「1億総決起」などと語った為政者もいる。
地位を失うことを恐れ、周りに責任をなすりつける者もいる。
慶喜は、大きな時代のうねりのなか将軍という運命を受け入れ、歴史の流れを見据え幕府を明け渡した。
なんという人物であろうか。
将軍からニートへ
幕府を追われた後の話もおもしろい。
慶喜は静岡で暮らし最後は東京へと戻るのだが、明治政府で仕事をする旧臣たちとの付き合いを避け続けたそうだ。
将軍をやめてよかったとおもうのは、この油絵をかいているときだ — 本書より引用
何ごとも自分でこなすことを好む性分と、自由に新しいものを受け入れる精神で多くの趣味を持ち生きたという。
多くのメディアで「自分らしい生き方」というフレーズを目にする。 「徳川慶喜」の生き様を読み終えて浮かんだのはこの言葉だった。
著者の文章に依するところもあると思うが、彼の生き様は激しい時代に大きな命運を背負っていながらまったくと言っていいほど重苦しさを感じさせないものだった。
どこまでも「自分らしい生き方」を貫いた人物の物語である。
著者について
司馬 遼󠄁太郎(しば りょうたろう、1923年〈大正12年〉8月7日 - 1996年〈平成8年〉2月12日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。本名は福田 定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼󠄁(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
大阪府大阪市生まれ。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。『街道をゆく』をはじめとする多数の随筆・紀行文などでも活発な文明批評を行った。
— 司馬遼太郎 - Wikipediaより引用