『令和元年のテロリズム』 磯部涼【読書感想・日記】
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本書概要
まったく素顔が見えない川崎の無差別殺人犯・岩崎隆一。元農水事務次官の長男・熊澤英一郎は父親に殺されるべきだったのか? 戦後で最も多くの死者が出た京都アニメーションの放火事件犯・青葉真司が抱える深い闇。令和の幕開けに起こった新時代の前途多難を予感させる大事件から浮かび上がってくる現代日本の「風景」とは? — 本書より引用
キッカケ
本書を手に取る要因として、先日の参議院選挙中に起こった事件があったことは否定しない。
ショックの大きい日だった。この安倍元首相という人物に対し尊敬や惜しまれる思いなどは無い。むしろ、私が信じる民衆主義、法システムを戦後最も破壊した首相であり、一日も早く政界から退場してほしいと願う人物であった。だが、ひとりの人間が亡くなってしまうことは大変な悲劇であり、ましてや暴力によるものとなればこ
先日のこの日記を書いた時点では容疑者の動機について何も明らかになってはいなかった。
その後、事件の背景が少しずつ報じられるなか、「テロ」というワードに違和感を感じた。
テロリズムとは、ある政治的目的を達成するために、暗殺、殺害、破壊、監禁や拉致(らち)による自由束縛など過酷な手段で、敵対する当事者、さらには無関係な一般市民や建造物などを攻撃し、攻撃の物理的な成果よりもそこで生ずる心理的威圧や恐怖心を通して、譲歩や抑圧などを図るものである。政治的目的をもつという意味で単なる暴力行為と異なるが、それらの目的には、政権の奪取や政権の攪乱(かくらん)・破壊、政治的・外交的優位の確立、報復、活動資金の獲得、自己宣伝などさまざまなものがある。これらテロリズムを行う主体をテロリストといい、個人から集団、あるいは政府や国家などが含まれる。 — テロリズムとは - コトバンク より引用
結果として社会に恐怖をもたらした場合、とりあえずその事件は「テロ」とする傾向を感じる。
「テロ」は、それなりにインパクトのある言葉だ。
穿った見方で恐縮だが、販売部数、視聴率、PVを稼ぐ目的において出来れば使いたい言葉なのではないか。
実際この事件の容疑者は明確な社会への影響という計算はあったのかもしれない。
まだ裁判は行われておらず何も明確なことはないのであくまで個人の勝手な想像である。
カルト宗教二世、家族の自殺、親の破産、一家離散。壮絶な人生を経てなお、何かしらの「救い」にめぐり合うことができなかった人間による事件、として捉えてみると「テロ」というより「復讐」という側面が強いのではないか。
結果として暴力へと至らざるを得なかった理由、「精神の決壊の部分」に私は強い関心がある。
このギリギリのところに私は他人事ではないという思いがあり、それが本書を手に取るキッカケとなる。
本題、「平成元年のテロリズム」について
元号が「平成」から「令和」へと移り変わってから3か月の間に社会を大きく揺るがす事件が立て続けに起こった。
事件の詳細については、リンク先のWikipediaのページを参照してほしい。
本書はこれら事件を詳細に追ったルポタージュである。
また著者はこれら事件を2つの切り口でまとめている。
ひとつは、平成から日本社会が先送りにしてきた問題が事件の背景にあること。
これは引きこもり問題や就職氷河期など平成から続く社会問題が事件に少なからず影響があったと指摘している。
もうひとつは、『「社会全体で考えるべき」事件こそが、テロリズムとして捉えられる』としていること。
この新たな定義に疑問はある。だがいずれの事件も社会を恐怖へと陥れる結果となったが、そもそも当事者に「テロリズム」という目的はあったのか。
それは本書の丹念な取材結果が物語っている。
テロリズムではないと。
いずれも、個人的(あるいは家族的)な問題を孤独の内に抱え込み、精神の臨界点を迎えてしまった者たちによる不幸な帰結である。
個人によって異なるが人間が耐えうる精神的負荷には限界がある。
その限界を超えると誰しも「壊れるか」か「暴力に向かう」。
後者の場合、さらにその対象が己自身(自殺)か、他者に向かうかで別れる。
これは、いかに幸せな人生を送ってこようとも、どれだけ豊かで広い心を持っていようとも、その人の限界まで追い詰められれば
誰にでも同じことが起こる。
「自分は違う」と思う人は、起こりうる理不尽についてもっと、もっと、もっと想像してほしい。
事故に遭う、事件に巻き込まれる、誰一人信用ならない状況、なんでもいい。
それは明日あなたに降りかかることかもしれない。
私自身、強い精心を持ち合わせた人間ではない。
そして気が変になるほどの憎悪を抱え生きた時期が長らくある人生だった。
本書にあるような事件を耳にするたび「あれは自分だったかもしれない」という思いが脳裏をかすめる。
追い詰められていく人生の分岐点において、「救い」と出会えるルートは思った以上に限られている。
私は、奇跡とも言えるまったくの偶然の出会いにより、自殺ないし他殺といった暴力へのルートを避けることができた。
人の世は不平等で成り立っている。
私は幸運、偶然に巡り合えなかった者は不運。
そして、不運の者が引き起こす凶行により幸運の側にいた者が不運の側へと転落する。
永久に生まれる火の付いた爆弾を押し付け合うような社会構造から逃れる手立てはないのだろうか。
いつまた不運の側に墜ちるか分からないが、いま幸運の側にいる私は後ろめたさを消し去ることができない。
いわば自己満足でしかないのだが、「救い」へのルートがあまりに限られている現状を少しでも変えることができないかと考える。
その1つとして、ひとりでも多くの人が「ニュースの事件」と己の人生が地続きであることを認識してほしい思いで、拙い文ではあるがこのように書き散らしている。
なぜ地続きと認識するべきと思うかと言えば、それは事実であるから。
そして、他人事・無関心の層が薄くなり、共同体としての意識の層が厚くなれば、追い詰められた者が救いにたどり着くルートが増えるからだ。
いま私にある幸福が理不尽に奪い去られ、憎しみをたぎらせるだけの人生に再び転落したらもう二度と這い上がれないのではないかという恐怖がある。
夢に見てしまったあとはしばらく立ち直ることができない。
なぜなら分厚い無関心の空気を痛いほど知っているからであり、最後はヤケクソにならざるを得ないと想像できてしまうから。
吐いて捨てるほど理不尽あふれる世界で自己責任が持てはやされるのは悪い冗談にしか聞こえないのだが、どうだろうか。
著者について
磯部涼 イソベ・リョウ
1978(昭和53)年生れ。音楽ライター。著書に『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』、『音楽が終わって、人生が始まる』、『遊びつかれた朝に』(九龍ジョーとの共著)、『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之、吉田雅史との共著)、『ルポ川崎』、『令和元年のテロリズム』、編著などに『踊ってはいけない国、日本』、『踊ってはいけない国で、踊り続けるために』、『新しい音楽とことば』がある。 — 新潮社より引用