neputa note

『珈琲と煙草』 フェルディナント・フォン・シーラッハ ~読書感想と引用メモ

初稿:

- 12 min read -

img of 『珈琲と煙草』 フェルディナント・フォン・シーラッハ ~読書感想と引用メモ

本書概要

孤独感を抱える人物の心理を端正な文章で綴った小説。イエズス会の寄宿学校での出来事や、父の死、ナチの高官でユダヤ人迫害に加担した祖父への言及などの自伝的エッセイ。ある俳句を教えてくれた京都からの留学生をめぐる、著者の死生観が垣間見えるエピソード。ドイツで死刑が廃止される12日前に斬首刑となった男の犯罪実話。ボクサーとの恋の思い出を語る老婦人や、収支報告書の改竄で告訴された男といった、弁護士として出会った人々との交流譚──。 クライスト賞受賞、日本で本屋大賞「翻訳小説部門」第1位に輝いたデビュー作『犯罪』、映画化された法廷小説『コリーニ事件』、世界各国で2600回以上上演された戯曲『テロ』。これまで社会や人間を深く描写してきた現代ドイツを代表する作家が、多彩な手法で紡ぐ新たな作品世界! 東京創元社より引用

読書感想

フェルディナント・フォン・シーラッハ初のエッセイ集。

文体はこれまで読んだ小説作品と変わらず硬く、淡々と出来事を綴っている。

著者の特権で、勝手に人物の心情を描写するような、乱暴なことはない。

各篇は、短い日常の断片から短編小説のような読み応えのあるものまで、非常にバラエティーに富んでいる。

日常の切り取り方に、著者の人間性、ユーモアのセンスが垣間見える。

読みながら、このエッセイに記された観察や思考の延長上に小説作品があることが良くわかる。

形容詞で描写を膨らませることをせず、ただただ出来事を列挙するように文章を綴ることはとても怖い。

話しの内容そのもののみで勝負することであり、エッセイともなればセンスや人格が剥き出しになってしまう。

それこそが、シーラッハ作品の最も好きな部分であり、著者の魅力なのだとあらためて思う。

著者と対面した時の様子を記した訳者・酒寄氏のあとがきも印象深い。

「ドイツ人には珍しく、ゆっくりと噛んで含めるように話し、相手が理解するのを持つように頻繁に間を置く」。

この間が著者の人生のリズムであり、本書のタイトルはそれを象徴していると。

本書は昨年の2月に出版された。

発売される前、私は趣味のドイツ語学習の一環として、原書に挑戦する予定だった。

だが足踏みしている間に翻訳され、迷った挙句に読んだ。

そして、シーラッハの書く文章と、訳者の翻訳の素晴らしさに圧倒された。

酒寄氏の訳はほんとうに美しい。

自分で訳さず読んでよかったと、言い訳を含みつつ思う。

著者・訳者について

フェルディナント・フォン・シーラッハ 1964年ドイツ、ミュンヘン生まれ。ナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの孫。1994年からベルリンで刑事事件弁護士として活躍する。デビュー作である『犯罪』(2009)が本国でクライスト賞、日本で2012年本屋大賞「翻訳小説部門」第1位を受賞した。その他の著書に『罪悪』(2010)、『コリーニ事件』(2011)、『カールの降誕祭(クリスマス)』(2012)、『禁忌』(2013)、『テロ』(2015)、『珈琲と煙草』(2019)、Nachmittage (2022)などがある。 http://www.schirach.de/ 東京創元社より引用

酒寄進一 (サカヨリシンイチ ) ドイツ文学翻訳家。1958年生まれ。和光大学教授。主な訳書――2012年本屋大賞「翻訳小説部門」第1位のシーラッハ『犯罪』、2021年日本子どもの本研究会第5回作品賞特別賞を受賞したコルドン〈ベルリン三部作〉、ヘッセ『デーミアン』、ブレヒト『アルトゥロ・ウイの興隆/コーカサスの白墨の輪』、ケストナー『終戦日記一九四五』、ノイハウス〈刑事オリヴァー&ピア・シリーズ〉。 東京創元社より引用

引用メモ

  • P028

    「故郷というのは場所じゃない。記憶さ」

  • P033

    • イタリアのロンバルディア平原にある「マジェンタ」という小さな町の名前の由来

      一八五九年六月四日、そこで多くの兵が命を落とし、大地は朱に染まった。「マゼンタ」という色の名前はそれに由来する。

  • P036

    ドイツ連邦共和国首相だったヘルムート・シュミットは、私にとって憧れの喫煙者だ。彼が吸ったたばこは百万本を優に超えるだろう。そしてその一本一本が「メメント・モリ」だった。死を想うとき、私たちはいやがおうでも自分の生を想う。ヘルムート・シュミットにはぴったりの言葉だ。

  • P064

    人間の尊厳は私たちの限界を推し測れるからこそ、生きることに好意的だ。そして私たちはこの尊厳を持つことによってはじめて本当の意味で人間になる。ただし尊厳は手足とは違って人間の部位ではない。あくまで理念だ。だから壊れやすい。守らねばならないのだ。

  • P065

    三千年前、ペルシア王キュロス二世は虜囚を解放し、すべての人間が宗教を自由に選べること、そして出身地がどこであろうとすべての人間を平等に扱うことを史上はじめて宣言した。キュロスの法は、世界人権宣言の最初の四条に生かされている。ユダヤ人であれ、移民であれ、亡命者であれ、同性愛者であれ、そういう社会的弱者を守らなければ、私たちは無知蒙昧の輩に舞い戻ることになるだろう。イギリスの大憲章、アメリカ合衆国の権利章典、フランスの人間と市民の権利の宣言、そして自由な各国の現行憲法、これらは私たちが自然を凌駕し、自分自身に打ち勝った証だ。いまなおおこなわれている蛮行に目を覆いたくなっても、覆うわけにはいかない。蛮行や暴行に対抗できるのは、私たちだけなのだから。

  • P101

    クライストから百二十五年後、ベルナー・ハイゼンベルクは説いている。 「私たちが物語ることのできる現実は、現実そのものではない」 粒子のふたつの特性を同時に正確に測定することは不可能だ、とハイゼンベルクはいっている。もし粒子の位置を厳密に特定しようとすれば、そのことによって必然的にその粒子の運動量は変化してしまうからだ。 私たちは一瞬を生きているだけだ。沈思黙考しても、この短い間隙では、現実を認識するという一見きわめて簡単に思えることを一度たりともやりなおせはしない。 ハイゼンベルクの理論はいまだに否定されていない。

  • P113

    悪なるものを知らなければ、私たちは生きつづけられない。

  • P122

    カラヴァッジョは聖と俗を区別しない。生そのものがあるだけだ。 美しきアニェス・ソレルが死を迎えたとき、最後にこういい残したという。 「私たちはなんと吐き気がする存在で、悪臭を放ち、病に冒されやすいことか」

  • P127

    「この世には私たちの力が及ぶものもあれば、及ばないものもある。私たちの力でなんとかなるのは『受容と判断、衝動、欲望、拒絶』だ。どれも私たちが自分で働きかけ、責任を負わねばならないものだ。一方、私たちの力では如何ともしがたいものには『肉体、財産、評判、地位』がある。つまり私たちが自分で働きかけることができず、責任を負えないものだ」

  • P158

    幸せには色がある。だが見えるのはいつも一瞬だ。

  • P161 訳者あとがきより

    ところでシーラッハと会っているときよく思うのが、ドイツ人には珍しく、ゆっくりと噛んで含めるように話し、相手が理解するのを待つように頻繫に間を置くことだ。弁護士という職業柄かはわからないが、この「間」が彼の人生のリズムで、その長さがコーヒーを一口飲むときや、たばこを一服する時の長さと妙にシンクロしている。だから本書のタイトルは著者の人生のリズムを象徴しているともいえるだろう。そして本書はそのリズムで過去を振り返り、現在を見すえ、未来に思いを馳せた観察記録の集積だといえる。著者は実際、本書の文章をBeobachtung(観察)と呼んでいる。

目次